きりしま月の舟

人生は音楽だ!(追悼・大和田明江 岩本雅樹)

2023.06.10更新


 雨が続きます。一日おきに、晴れ、大雨、と続き、今日は大雨。

 6月6日の結婚記念日の日は、大雨でした。一限目の鹿児島県立短大の講義を終え、学生さんたちに「先生、結婚記念日おめでとうございます」の書き込みのある交換ノートを受け取って、授業後、そのままドライブへ。

 串木野で待ち合わせの予定であった長島在住の馬場さんは、大雨のため、長島から出ずに、安全を確保。わたしたち夫婦だけ、串木野へ車を走らせました。

 今回の結婚記念日ドライブは、最初、指宿方向へ行くかな、と思っていましたが、いや、それより長島に行こう、となって、いや、馬場さんに会うんだったら、昨年亡くなった岩本雅樹さんのお墓参りを一緒にしよう、という計画になったわけで。

 岩本雅樹さんは、わたしの公民館講座の受講生であり、ユタカ君の高校の後輩。といっても、わたしたちと同年齢でしたから(わたしより一歳上、ユタカ君より一歳下)、友人であり、兄弟みたいな感覚でおつきあいしていました。

 その雅樹さんが亡くなったとの知らせが入ったのが、昨年10月。両親は早く亡くなり、病気で長期療養中の弟さんがおいでで、いわば天涯孤独の身でしたから、早い段階で、串木野冠嶽の鎮国寺さんに、死んだらお骨は預ける、と言っていました。

 月の舟@天文館時代は、木曜日は一日、月の舟にいて、朝から晩まで源氏物語を受講してくれました。いろんなイベントでも、裏方として働いてくれました。激怒したきみちゃんも、ユタカ君との喧嘩も、いつもなだめる役が雅樹さん。

 一番の思い出は、サンエールかごしまで、源氏物語のイベントをしたときに、きみちゃんがついついトークしすぎで、時間超過するのを心配して、客席の一番後ろに雅樹さんが座って、「あと5分」のボードを掲げてくれました。

 そのとき、きみちゃんはそのボードに気づき、あと5分とわかってはいましたが、結局それから10分しゃべったので、5分超過で、雅樹さん、笑いながら、僕のボードは意味なかった、と言っていました(笑)。でも、あのボードがあったから、5分超過ですんだよね。ありがとう、雅樹さん。

 優しくて、頑固な雅樹さん。鎮国寺のお坊に住んでいると思いきや、串木野駅近くのアパートにいたらしく、そこで亡くなっているのが発見されたとのこと。小柄で細くて、いかにも虚弱体質って感じでしたから、病気を抱えておいでのようでしたけど、新屋敷に移転する頃にはお会いする回数も減って、亡くなられたとの知らせを受けて、びっくりでした。

 亡くなられたのが、昨年10月20日。あれから半年以上もお墓参りができなくて、そのことを雅樹さんが怒っているような大雨でした。

 まず鎮国寺へ。真言宗のお寺です。噂には聞いていましたけど、いざ初めて伺ってみると、まあ、山のてっぺんにあって、下界からはるか雲の上の場所。大雨なので、道が滑りやすく、ところどころ、滝のように水が流れている場所があって、助手席に座るわたしの視界からは、左側が崖。いやあ、怖いよお。

 やっとたどり着いたと思ったら、雅樹さんのお墓はここではなくて、車で15分行ったところとのこと。尼さんらしき方のご案内で、また大雨の中を走ります。対向車が来ると、狭い林道は、左側の崖が心配。で、助手席のきみちゃんは、いちいち大騒ぎ。「パパ、もっと右に寄って。落っこちるよ」と騒ぐ60女。

 しばらく行くと、お堂が見えます。そこに、雅樹さんのお位牌があるのでした。そこには、たくさんの無縁仏のお位牌がありました。50くらい、あったかな。それぞれ出身地が書いてあります。鹿児島だけでなく、京都や他県のものもあります。でも、雅樹さんのお位牌は、出身地が確認できなかった、とのことで「鎮国寺」とありました。

 雅樹さん、すぐに来れなくてごめんね。今日は怒ってるみたいだね。すぐに来てくれなかったから、寂しかった、と言わんばかりの号泣するような雨。

 お堂の中で、お茶を頂き、尼さんから雅樹さんのことを伺いました。ときどき鎮国寺にあがっては来るけど、すぐに帰っていった、とのこと。病院の来院日だったのに、来なくて、電話しても出ないので、アパートを訪ねたときは、亡くなっていた、とのこと。

 その後、お骨が納められている場所に案内してくださいました。冠嶽園の一画の石塔のなかにお骨はあるとのことで、その石塔の前で合掌しました。

 雨はいつまでも強く降り続けます。わたしのスカートも、ユタカ君の背中もびっしょり。尼さんは、雨靴でおいでになりましたし、あまり濡れていない感じで、さっぱりとそこに佇んでおられます。

 大雨だったけど、お墓参りに行けて、良かった。わたしもユタカ君もお墓参りができて、ひと安心。馬場さん、次は一緒に行きましょうね。

 大雨のなかを、お昼ごはんを食べに、ゆのまえ食堂へ。なにせ、串木野は、わたしの故郷ですからね。同級生がいっぱいいるのよ。ゆのまえ食堂は、同級生の湯之前誠君が経営する食堂。美味しいと評判です。

 串木野駅前にある「ゆのまえ食堂」に行って、まぐろラーメンセットと、黒豚かつ丼を注文。どちらも絶品でございました。美味しかったよお。

 湯之前君曰く「この間、新聞をみたよ」とのこと。たぶん、「てぃーたいむ」で特集されていた記事を読んでくれたのね。そして、奥様に向かって「この人、びんた(頭)がよかったんだよ」と、わたしの頭の良さを褒めてくれました。

 そうそう、小学校の時から、きみちゃん、優秀だったからね。覚えていてくれて、ありがとう。ついでに「かわいかったしね」と付け加えてほしかったな(笑)。

 お腹いっぱいになったところで、お魚を買おうと、串木野小学校近くの「赤塚鮮魚店」へ。ここは、母とよく一緒に行った魚屋さん。隣りに野菜や果物、お惣菜を売るコーナーもできて、間口が広がっていました。

 さすが、魚の町くしきの。新鮮な魚がいっぱいだわ。魚に目がないきみちゃん、いろいろ買い込みました。

 さ、帰ろうか。途中、運転を交代しながら、いろんなものを買い出ししながら、霧島へ。雨がようやく小降りになってきて、無事、霧島に帰り着いて、ほっとしました。

 よかった。お墓参りができて。結婚記念日にお墓参りもないけど、こんなときでもないとなかなか行けないからね、というユタカ君の提案で、行って良かった。それに、串木野小学校、串木野中学校を垣間見て、あまりのなつかしさに、時が戻ったような気分。かわいくて、溌溂として、素敵だったきみちゃんを思い出しました。

 人が生きて、死ぬって、儚いものだね。でも、どんな人の一生も、意味があり、役割がある、と思います。雅樹さんの優しい佇まいは、わたしたちの胸にしっかりと刻み込まれていますからね。

 わたし自身、自分の人生を振り返る良いきっかけになりました。わたしは100歳まで生きる。100歳まで生涯現役。書いて、動いて、旅して、散歩して、講義して、笑顔で過ごす。

 やはり、どんな自分でありたいか、どんな人生を歩みたいか、目標を設定するのって、とても大事です。

 100歳まであと35年。健康で活動できるためには、どんな生活をしたらよいか、つねに工夫する。死ぬ瞬間が最高の地点であるように、日々、最高の瞬間を過ごす。愛と感謝に満ちて、やりたいことをめいっぱいやって、行きたいところにがんがん行きますよ。

 人生は音楽だ。先日、そんな言葉が降ってきました。

 この5月に亡くなった母校の先輩である大和田明江さんのことを考えていて、「明江さんって、いっつもフォルティシモで生きていたなあ」、あまりにも「強」だらけの人生だったんじゃないか、と思えてしょうがありませんでした。

 いつも笑顔で、とっても優しい雰囲気の明江さん。告別式では、若い人たちが、まるでお母さんを亡くしたかのように、涙を流していました。明江さんを師と仰ぎ、母のように慕っていた若者たちだったのでしょう。

 大きなお葬式で、たくさんの方が参列されていました。わたしは、明江さんの誘いで、明江さんご夫妻が立ち上げられた鹿児島県有機農業協会の初代理事でしたから、そのときからの理事の皆様が、明江さんのご遺体に向かって「明江さん、ありがとう。安らかにね」と声をかけておられる姿に感動しました。

 愛されていたんだなあ。鹿児島県有機農業の母だったんだよね。いつでも笑顔で、いつでも物腰が柔らかかったけど、いやあ、仕事一筋で、休むこともなかったよね。これから、夫の世志人さんと一緒に旅行でも、というときに、明江さんの癌がわかって、そんな明江さんをサポートしていた世志人さんが急逝されたんだよね。

 癌がわかってから、「みたけさんに会いたい」と何回も会いました。そのたびに、もう命長くないから、という感じで、でも、仕事はきっちりしたい、と意欲的でしたね。

 霧島の我が家にも泊まってくれました。3年前だったかな。もう固形物が食べられないと、わたしの作った野菜スープを「美味しい」と言って、食べてくれました。ぐっすり眠れた、と言ってくれて、嬉しかったですね。

 ただ、そのときも、朝ゆっくりすると思いきや、朝食が終わると、10件以上の電話をあちこちにかけて、いやあ、仕事のできる女って感じでしたね。電話が終わると、ユタカ君の万葉集講座を受講してくださいました。

 あのときは、世志人さんと旅行人山荘で待ち合わせて、ご夫婦ふたりのランデブーをお過ごしになって、わたしが旅行人山荘まで車でお送りしたのでした。

 そのときに万葉集講座を受講された方が、明江さんと話をしたことを思い出されて、明江さんの死亡が新聞で報じられると、月の舟に哀悼の言葉を寄せてくださいました。

 その後も、何回かお会いしました。けれど、どんなときも、ゆっくりしてくれたなあ、と思っていると、「はい、休むのはここまで。さ、仕事よ」と、休みをさっさと切り上げて、仕事されるのでした。

 日本女子大学の先輩方おふたりが、今年の初めに、明江さんに会いにいらしたときも、霧島で3人で宿泊されて、思い出話をされたあと、翌朝は、明江さんは仕事すると言って、鹿児島市内まで戻るとのこと。で、きりしま月の舟に行くといいよ、と、先輩おふたりは訳もわからないまま、きりしま月の舟においでになったのでした。

 いやいや、こんなとき、東京からいらした先輩方ともっと一緒に時間を過ごされたらいいのに、と、わたしなんかは思うのですが、「だって、仕事がいっぱいなのよ。やらなきゃいけないのよ」とばかりに、末期癌だろうが、体調悪かろうが、さっさと仕事されるのです。

 その時間管理、働きづくめの精神が、鹿児島県の有機農業を世界レベルまで高めたと言えます。明江さんって凄いなあ、と大尊敬します。お葬式の弔電も、国会議員からのものがいっぱいでしたし、世界の大和田明江です。

 お嬢様のご挨拶も素晴らしかった。娘4人を立派に育てあげられましたよね。凄いなあ。お嬢様によれば、明江さんは、仕事のことをきちんと考えられるように薬を制限しておられたそうですが、「もう、とろとろと眠るように死にたい」とのことで、お薬を飲まれて、静かに息を引き取られたそうです。

 その意志力も凄いです。わたしにはできないなあ。明江さんは、ほんとフォルティシモばっかりだったよね。

 母校の日本女子大学の同窓会組織・桜楓会の鹿児島支部長もされて、それもまた手を抜かない。有機農業の仕事の仕方と同じように手を抜かないで、それまで誰もやらなかったような講演会などを開催なさるのです。

 そして、自分のあとは、みたけさんを支部長に、ということで、わたしがその次の支部長をやらせていただいたのですが、明江さんは監査役でしたけど、桜楓会の決算書を見て、「あくびの出るような数字よね」と言われていたことを鮮明に思い出します。

 わたしは、誰もやらなかった講演会を、あの忙しい明江さんが自らの意思でなさったことに感銘を受け、わたしも支部長になったら、いろんな講演会を開催しようと思い、明江さんよりいっぱいイベントを組みました。

 だいたいにおいて、大学同窓会組織で支部長などになれば、できるだけ余計なことはしないで、楽しくやりましょう的なスタンスになりがちですが、明江さんは、そんな「あくびの出るような」組織運営を死ぬほど嫌って、改革路線を敷く、そんな感じでしたね。

 その後継者は、やはり、このきみちゃんがぴったりだったでしょう。いっぱい改革しましたね。女性経営者としての明江さんを、わたしは心から尊敬します。

 と同時に、遊び人のきみちゃんは、人生、フォルティシモだけではなくて、ピアニッシモもふんだんに入れて、むしろ、ピアニッシモをどれだけ優雅に弾けるかが、音楽の醍醐味、見せ場ならば、ピアニッシモとしての休息にこそ、もっと工夫が必要だ、ということを、フォルティシモだらけの明江さんに教えてもらったような気分です。

 人生を音楽のように美しく、優雅に奏でる。メリハリをつける、というのか。モンペからイブニングドレスまで、というのが、わたしの人生の指標ですが、視覚だけではなく、聴覚的にも、強弱のある人生が、より美しいものになるのでは。

 人生を美しく創造する。わたしのこれからの目標です。どれだけ美しく生きられるか。勝負だわ。

 明江さん、ありがとう。いろんなことを教えてくださった大先輩。明江さんのフォルティシモ人生の根源は、ご実家の没落、ということがあったのではないか、ときみちゃんは思っています。「負けてたまるか」「立ち上がってみせるわ」の根源は、由緒あるご実家に生まれた人のプライド。

 岩手県出身、東北の方々の骨のある努力は、南国の遊び人には追いつけない。いったんゼロになったものを100にするような、あのヴァイタリテイは東北のパワーですね。閉ざされた冬を生き抜く力。

 わたしは南国生まれの遊び人ですから、カラフルに、優雅に、音楽的に生きていきます。でもね、明江さんのような先輩がいらしたからこそ、わたしも頑張れる。

 今日は大雨で、明日も雨の予報。ならば、ピアニッシモで過ごしましょう。

 ありがとう、明江さん。そして雅樹さん。ふたりとも、まだわたしのなかで生きています。

 今日もブログを読んでいただきまして、ありがとうございます。人生は音楽。優雅に美しく生きていきましょう。